父の命日です。
先日、7日(土)に一周忌を終えました。
仕事の都合やご参列して頂く方の都合を考え、平日よりも週末かと。
そして、例年通りいくと本当は私の舞台と重なるところ・・・・・
が、今年は厚生年金が売却等により予約が取れるかどうかとゴタゴタし、時期が上手いことズレてくれたので、忙しくなる一歩手前。
そんな最中で一年が経ちました。
去年の今頃(夜)は・・・・・泣き疲れて、色んなところに電話して、パパの隣で寝る準備をしてるとこかな。
「遺すこと
記事」を書いててもまだたどり着けてないまま1年経っちゃった。
順番は違うけど、
「遺すこと」の最終。
2008年11月9日
その前日あたりから急に寒くなって、冬も間近かなと感じる日。
その日は私の1年の集大成となる舞台の日で、生徒達を指導して作品を披露する&自分も踊る日。そして、野球の1年生大会の決勝戦。
私は朝から楽屋入りのため、寒い朝の中準備し、洗面台で父と「行って来ます」と会話したのを覚えてます。当然、観に来るのを前提にその前に「1年生大会を観にいく」と言うから、「寒いから暖かいカッコしてね!」って注意して。
そして、私は楽屋入りし、ゲネプロ(リハーサル)をしていよいよ本番がスタートとなる手前、
開場してお客さんが入ってくる時間に、楽屋に祖母が一人で現れました。
一人なのに疑問を感じ、席を父と母と隣にしてあるから、「一緒でしょ?」って聞くと祖母は
「パパ、ちょっとお腹痛くなって・・・・」と、
「お腹が痛くなって」というフレーズに凄く嫌な予感がして、「まさか!?」と思いました。
朝は普通だったから大丈夫だろう。という思いと、2008年の1月に起きた出来事と重なって・・・
幕が上がる前でしたが、すぐ母に電話。
でも、なかなか繋がらない。
家に電話しても誰もでない。
ってことは、もしかして病院!?
と思い、また母に電話しても繋がらない。
現状が分からなくなり、大したことなくても不安があり、お寺に電話すると叔母が出て「病院に行った」と。少し弱気な声で、それでも本番前の私を気遣ってくれてる様子で「頑張ってね。」と。
そこで私はやっぱり病院に行ったんだ。と思い、もう一度母へ電話。
最初は隠そうとしていたが、現状を問いただすと再び、「肝臓の破裂」で処置室に入ってるところ。
詳しく問いただすとだんだん母が崩れていき、「どうしたらいい?」と。
すぐにカテーテルの処置が必要で放置しておくと、数時間持つかどうか。
でも、父は案の定、カテーテルを拒んでる。
母はパニックになって選択できない状況。1度経験してるだけに辛さもわかる。
そして、今回は2回目なだけに処置しても助からないかもしれない。最悪、術中にも・・・・って。
私も本番前だけど、舞台を蹴って行くわけにはいかないし、何もしてあげれない。
それでも、少ない望みにかけるしかない。
「今、そっちに行けないからカテーテル処置してもらって!!!サインして!!!」と頼み、それから電話を切りました。
そして、舞台の幕が上がりスタート。
合間に妹からも電話があり、彼女は私が舞台ということを知らずに「迎えに来て」と。
「ふざけるな」と応えたが、妹が呼ばれるということは前回よりも危ないということだろうと感じました。
もし踊ってる最中に・・・・・・と最悪の事を考えることも。
それでも、子供達に知られちゃいけないし、私も踊らなきゃいけないから。
と集中したり、ちょっと集中力が切れたり・・・・
もし・・・・と最悪の事になったら、踊ってる最中にパパのことだから現れてくれるだろう。と思ったり。笑
そんな心境でなんとか踊りきり、自分の出番終わって病院に駆けつけても良かったのかもしれないけど、幕が降りるまでが舞台。
子どもたちの作品も終わり、幕が降りたと同時に母からメール「手術終わったよ」
観に来てくれた友達と挨拶し、後片付けを程ほどに病院に駆けつけました。
妹が東京から向かってたが、私の方が早かったみたい。
病室は前回と違って、ナース室の一番近く。
室内には何が起きてもいいように監視カメラ。そして、沢山の点滴と器械。
そんな病室に父が寝ていた。
状況から見て明らかに前回とはレベルが違う。ってのは分かった。
でも、前回を乗り越えてるからこそ、今回も大丈夫だろう。と。
何よりも父も意識があるから。
私が病室に着いて「潤子まだなの?」って言葉に対して、パパは「なんで潤子まで来るんや」と。
強気な気持ちはある。
母から詳しい状況を聞くと「お医者さんは3週間って」「大和に連絡する?」って答えに、明らかに前回とは違うけど、乗り越えてる!という思いと絶対3週間以上は持つし、安定するだろう。と根拠の無い自信とで、「大和には落ち着いてから連絡すれば?」と言った私。
妹(潤子)が到着し、初めてベットに沢山の点滴の管が付いた寝ている父を見てショックを受けたんでしょう。大和に連絡する件で、離れてる者同士分かる部分があるのか病院に入ったことだけ、とりあえず言うことに。
処置後の父の状態は血圧が低すぎて測れないとのことで、体温がまず低すぎる。
看護婦さんが体温を測ろうとしてもなかなか測れなくて、ただ見てるだけも辛いからマッサージをして、血行をよくしようと妹と二人でマッサージ。
それから体温も上がってきて、血圧もなんとか測れるように。
それでも、父はたまにうなされて痛みがひどいみたい。
点滴の中で少量だけど、モルヒネを入れてるみたいでした。
私はモルヒネだけはやめて欲しいと思ったけど、痛みに耐えようと苦しそうに寝てる父を見ているとなんとも言えない状況でした。
「若菜、腰痛いからマッサージして」と言われ、痛みが和らぐようにマッサージしたり、寝つきが良くなるようにマッサージしたり・・・・でも、「気持ち悪い」と言ってうなってました。
1回目の破裂の後、術後は絶対安静で寝返りもダメ。って言われてたのに、今回の父は痛みに耐えれないのか、安静にも関わらず身体を動かそうとする。
夜になって、少し落ち着いてきて大丈夫かな。となり、私も舞台が終わって直接病院に駆けつけたので、一旦帰って、今晩は妹に付き添ってもらうことに。
少し寝ようと思って、12時ごろ。
電話がなり、「出血した。病院に戻ってきて。」と。
急いで母と病院に戻るとベットは血だらけ。
大量に出血した模様。
妹も寝ていて、気づかなくてアラームか何かで看護婦さんが入ってきて気づいたとのこと。
妹はかなりショックを受けてました。
止血も終わり、とりあえず落ち着いたので妹だけじゃ可哀想なので私も残ることにし、母だけ帰宅。
病院で妹と交代で寝ることにしました。
それでも、私は舞台の疲労がありかなり寝てしまい・・・・・
4時頃、バタバタと看護婦さんが入ってきました。
様態がまた急変したよう。
私はなかなか起きることが出来ずに、重い身体を起こすと看護婦さんや先生が慌ててました。
何も出来ずにごめんなさい。
5時ごろ、近い人を呼んでください。ということで、母を起こし来てもらうことに。
おばぁちゃんたちはもうちょっと時間経って、朝になってからで・・・・
4時、5時ごろから起きてずーっと父の身体をさすり続け、私の中で朝を迎えれれば大丈夫だろう。とまたしても根拠のない自信。(だって、亡くなるのは朝方に多いって・・・・)
そして、6時、7時になった頃にお寺に連絡。
大和にもいつでも連絡が取れるようにしてもらい、とりあえず帰ってきてもらえるよう連絡。
7時頃~8時頃に親戚一同揃って、父を見守る。
私と妹はずーっとマッサージ。
朝方、様態が急変してからまた血圧が測れなくなり、ずーっと点滴したまま。輸血も。
8時を過ぎてから、少し落ち着いてきて目を離しても大丈夫だろう。と安心し、叔父たちが「何も食べてないだろうからパンかおにぎり買ってきてやる」と1階の売店に買いに行ってくれた時・・・
再び様態が急変しました。
今度は点滴の器械がピーとなり、心電図が急に跳ね上がりイッキに下がり・・・・
何がなんだかわけもわからず、私はずーっと心臓をさすり続けました。
看護婦さんも駆けつけ、お医者さんも。
買い物に行った叔父たちにすぐに戻ってきてもらうように電話して。
全員が揃ったときは皆、覚悟を決めてたんでしょうか。
母は取り乱して、ずーっと父の名前を呼んでいた。
私はまだ死んでない!!と思って、まだ大丈夫だ。と思って、ずーっと心臓をさすり続けてました。
心電図を見ながら。
でも、心電図が何も反応しなくなって・・・・
おばぁちゃんが「息してないわ」って言った瞬間・・・・・
ふと、パパの後ろにおじいちゃんの存在を感じました。
逝ってしまう。
お願い逝かないで。
あの瞬間は言葉では言い表せません。
あんなにも自分の思い通りにならない悔しさ、自分の無力さを感じた瞬間。
「無」になるという瞬間を感じたことはありません。
お医者さんが「もういいでしょう」
と言う言葉で、私の手が離れ・・・(離したくなかった。認めたくなかった。でも、離したのは諦めたから?)
8時52分 父の死を宣告されました。
あれから一年。
今日は色んな人がお墓にお参りに来てくれたみたいで、お花がいっぱいありました。
自宅にもお花が届いて。ありがとうございます。
ぶっちゃけ、私はお墓にお参りに行くのが嫌です。
パパの骨が眠ってる。
まだ、認めたくない。
悔しい。
一年が過ぎるのは早いな。。。
去年の11月10日から私の一部は止まったよう。
それは弟の大和も同じ感覚みたいだね。
あの子なりに想い、感じ・・・離れてる分、一番辛い思いをされてるかもしれない。
大和魂
一部分は止まってるようでも、周りの環境は時間は勝手に動いてて、勝手に生きてるようで・・・・・
この一年、何があったかな。。。
って考えると一番大きいのは妹の存在。
パパが居なくなって、東京にいた妹が帰ってきて・・・・・
パパが居なくなった直後はママと二人だけ。と思ってた。
でも、周りの人々の支えもあり、妹が金沢に戻ってきてスポーツショップノブをやってくれることになり、三人暮らしに。
妹はパパそっくり。
まるでパパが居るみたい。(笑)
でも、パパはいない・・・・・
私は何も変わってないのに、勝手に一年経っちゃいました。
色々あったはずなのに、うすっぺらい一年。
乗り越えるまで、受け入れるまでまだまだ時間がかかるようです。