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カテゴリ:遺すこと( 5 )

2009年11月10日

父の命日です。


先日、7日(土)に一周忌を終えました。
仕事の都合やご参列して頂く方の都合を考え、平日よりも週末かと。

そして、例年通りいくと本当は私の舞台と重なるところ・・・・・
が、今年は厚生年金が売却等により予約が取れるかどうかとゴタゴタし、時期が上手いことズレてくれたので、忙しくなる一歩手前。

そんな最中で一年が経ちました。


去年の今頃(夜)は・・・・・泣き疲れて、色んなところに電話して、パパの隣で寝る準備をしてるとこかな。


「遺すこと記事」を書いててもまだたどり着けてないまま1年経っちゃった。

順番は違うけど、「遺すこと」の最終。

2008年11月9日

その前日あたりから急に寒くなって、冬も間近かなと感じる日。

その日は私の1年の集大成となる舞台の日で、生徒達を指導して作品を披露する&自分も踊る日。そして、野球の1年生大会の決勝戦。

私は朝から楽屋入りのため、寒い朝の中準備し、洗面台で父と「行って来ます」と会話したのを覚えてます。当然、観に来るのを前提にその前に「1年生大会を観にいく」と言うから、「寒いから暖かいカッコしてね!」って注意して。

そして、私は楽屋入りし、ゲネプロ(リハーサル)をしていよいよ本番がスタートとなる手前、
開場してお客さんが入ってくる時間に、楽屋に祖母が一人で現れました。

一人なのに疑問を感じ、席を父と母と隣にしてあるから、「一緒でしょ?」って聞くと祖母は
「パパ、ちょっとお腹痛くなって・・・・」と、

「お腹が痛くなって」というフレーズに凄く嫌な予感がして、「まさか!?」と思いました。
朝は普通だったから大丈夫だろう。という思いと、2008年の1月に起きた出来事と重なって・・・

幕が上がる前でしたが、すぐ母に電話。
でも、なかなか繋がらない。
家に電話しても誰もでない。

ってことは、もしかして病院!?

と思い、また母に電話しても繋がらない。

現状が分からなくなり、大したことなくても不安があり、お寺に電話すると叔母が出て「病院に行った」と。少し弱気な声で、それでも本番前の私を気遣ってくれてる様子で「頑張ってね。」と。

そこで私はやっぱり病院に行ったんだ。と思い、もう一度母へ電話。

最初は隠そうとしていたが、現状を問いただすと再び、「肝臓の破裂」で処置室に入ってるところ。
詳しく問いただすとだんだん母が崩れていき、「どうしたらいい?」と。

すぐにカテーテルの処置が必要で放置しておくと、数時間持つかどうか。
でも、父は案の定、カテーテルを拒んでる。

母はパニックになって選択できない状況。1度経験してるだけに辛さもわかる。

そして、今回は2回目なだけに処置しても助からないかもしれない。最悪、術中にも・・・・って。



私も本番前だけど、舞台を蹴って行くわけにはいかないし、何もしてあげれない。

それでも、少ない望みにかけるしかない。

「今、そっちに行けないからカテーテル処置してもらって!!!サインして!!!」と頼み、それから電話を切りました。



そして、舞台の幕が上がりスタート。


合間に妹からも電話があり、彼女は私が舞台ということを知らずに「迎えに来て」と。

「ふざけるな」と応えたが、妹が呼ばれるということは前回よりも危ないということだろうと感じました。


もし踊ってる最中に・・・・・・と最悪の事を考えることも。


それでも、子供達に知られちゃいけないし、私も踊らなきゃいけないから。
と集中したり、ちょっと集中力が切れたり・・・・

もし・・・・と最悪の事になったら、踊ってる最中にパパのことだから現れてくれるだろう。と思ったり。笑



そんな心境でなんとか踊りきり、自分の出番終わって病院に駆けつけても良かったのかもしれないけど、幕が降りるまでが舞台。


子どもたちの作品も終わり、幕が降りたと同時に母からメール「手術終わったよ」

観に来てくれた友達と挨拶し、後片付けを程ほどに病院に駆けつけました。



妹が東京から向かってたが、私の方が早かったみたい。
病室は前回と違って、ナース室の一番近く。
室内には何が起きてもいいように監視カメラ。そして、沢山の点滴と器械。
そんな病室に父が寝ていた。


状況から見て明らかに前回とはレベルが違う。ってのは分かった。
でも、前回を乗り越えてるからこそ、今回も大丈夫だろう。と。


何よりも父も意識があるから。


私が病室に着いて「潤子まだなの?」って言葉に対して、パパは「なんで潤子まで来るんや」と。

強気な気持ちはある。


母から詳しい状況を聞くと「お医者さんは3週間って」「大和に連絡する?」って答えに、明らかに前回とは違うけど、乗り越えてる!という思いと絶対3週間以上は持つし、安定するだろう。と根拠の無い自信とで、「大和には落ち着いてから連絡すれば?」と言った私。


妹(潤子)が到着し、初めてベットに沢山の点滴の管が付いた寝ている父を見てショックを受けたんでしょう。大和に連絡する件で、離れてる者同士分かる部分があるのか病院に入ったことだけ、とりあえず言うことに。


処置後の父の状態は血圧が低すぎて測れないとのことで、体温がまず低すぎる。

看護婦さんが体温を測ろうとしてもなかなか測れなくて、ただ見てるだけも辛いからマッサージをして、血行をよくしようと妹と二人でマッサージ。

それから体温も上がってきて、血圧もなんとか測れるように。

それでも、父はたまにうなされて痛みがひどいみたい。

点滴の中で少量だけど、モルヒネを入れてるみたいでした。

私はモルヒネだけはやめて欲しいと思ったけど、痛みに耐えようと苦しそうに寝てる父を見ているとなんとも言えない状況でした。

「若菜、腰痛いからマッサージして」と言われ、痛みが和らぐようにマッサージしたり、寝つきが良くなるようにマッサージしたり・・・・でも、「気持ち悪い」と言ってうなってました。


1回目の破裂の後、術後は絶対安静で寝返りもダメ。って言われてたのに、今回の父は痛みに耐えれないのか、安静にも関わらず身体を動かそうとする。


夜になって、少し落ち着いてきて大丈夫かな。となり、私も舞台が終わって直接病院に駆けつけたので、一旦帰って、今晩は妹に付き添ってもらうことに。


少し寝ようと思って、12時ごろ。

電話がなり、「出血した。病院に戻ってきて。」と。


急いで母と病院に戻るとベットは血だらけ。
大量に出血した模様。

妹も寝ていて、気づかなくてアラームか何かで看護婦さんが入ってきて気づいたとのこと。
妹はかなりショックを受けてました。


止血も終わり、とりあえず落ち着いたので妹だけじゃ可哀想なので私も残ることにし、母だけ帰宅。
病院で妹と交代で寝ることにしました。

それでも、私は舞台の疲労がありかなり寝てしまい・・・・・


4時頃、バタバタと看護婦さんが入ってきました。
様態がまた急変したよう。

私はなかなか起きることが出来ずに、重い身体を起こすと看護婦さんや先生が慌ててました。
何も出来ずにごめんなさい。

5時ごろ、近い人を呼んでください。ということで、母を起こし来てもらうことに。
おばぁちゃんたちはもうちょっと時間経って、朝になってからで・・・・


4時、5時ごろから起きてずーっと父の身体をさすり続け、私の中で朝を迎えれれば大丈夫だろう。とまたしても根拠のない自信。(だって、亡くなるのは朝方に多いって・・・・)


そして、6時、7時になった頃にお寺に連絡。
大和にもいつでも連絡が取れるようにしてもらい、とりあえず帰ってきてもらえるよう連絡。


7時頃~8時頃に親戚一同揃って、父を見守る。

私と妹はずーっとマッサージ。
朝方、様態が急変してからまた血圧が測れなくなり、ずーっと点滴したまま。輸血も。




8時を過ぎてから、少し落ち着いてきて目を離しても大丈夫だろう。と安心し、叔父たちが「何も食べてないだろうからパンかおにぎり買ってきてやる」と1階の売店に買いに行ってくれた時・・・


再び様態が急変しました。

今度は点滴の器械がピーとなり、心電図が急に跳ね上がりイッキに下がり・・・・

何がなんだかわけもわからず、私はずーっと心臓をさすり続けました。

看護婦さんも駆けつけ、お医者さんも。

買い物に行った叔父たちにすぐに戻ってきてもらうように電話して。

全員が揃ったときは皆、覚悟を決めてたんでしょうか。

母は取り乱して、ずーっと父の名前を呼んでいた。

私はまだ死んでない!!と思って、まだ大丈夫だ。と思って、ずーっと心臓をさすり続けてました。

心電図を見ながら。

でも、心電図が何も反応しなくなって・・・・
おばぁちゃんが「息してないわ」って言った瞬間・・・・・

ふと、パパの後ろにおじいちゃんの存在を感じました。
逝ってしまう。

お願い逝かないで。

あの瞬間は言葉では言い表せません。

あんなにも自分の思い通りにならない悔しさ、自分の無力さを感じた瞬間。
「無」になるという瞬間を感じたことはありません。


お医者さんが「もういいでしょう」

と言う言葉で、私の手が離れ・・・(離したくなかった。認めたくなかった。でも、離したのは諦めたから?)

8時52分 父の死を宣告されました。
















あれから一年。

今日は色んな人がお墓にお参りに来てくれたみたいで、お花がいっぱいありました。
自宅にもお花が届いて。ありがとうございます。



ぶっちゃけ、私はお墓にお参りに行くのが嫌です。
パパの骨が眠ってる。
まだ、認めたくない。
悔しい。



一年が過ぎるのは早いな。。。


去年の11月10日から私の一部は止まったよう。
それは弟の大和も同じ感覚みたいだね。
あの子なりに想い、感じ・・・離れてる分、一番辛い思いをされてるかもしれない。
大和魂



一部分は止まってるようでも、周りの環境は時間は勝手に動いてて、勝手に生きてるようで・・・・・

この一年、何があったかな。。。

って考えると一番大きいのは妹の存在。

パパが居なくなって、東京にいた妹が帰ってきて・・・・・

パパが居なくなった直後はママと二人だけ。と思ってた。
でも、周りの人々の支えもあり、妹が金沢に戻ってきてスポーツショップノブをやってくれることになり、三人暮らしに。
妹はパパそっくり。
まるでパパが居るみたい。(笑)

でも、パパはいない・・・・・


私は何も変わってないのに、勝手に一年経っちゃいました。
色々あったはずなのに、うすっぺらい一年。


乗り越えるまで、受け入れるまでまだまだ時間がかかるようです。
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by wb-style | 2009-11-11 01:31 | 遺すこと

遺すこと6(進行2)

9月

どん底から這い上がりいい雰囲気になり、それでも『生きる』欲を失わず色んな道を探しました。

もちろん、セカンドオピニオン(主治医ではない先生に診て頂く)もしたのですが、専門の先生ではなかったようで、私達が調べた方が詳しかったような。。。。笑


と、いうのもマイクロ波のレンタル期間が1ヶ月ということで、次の手段を考えなければいけなかったのです。


10月

9月の上り調子からそのままマクロビオティックの食事をベースにマイクロ波丸山ワクチンプラセンタ、毎週の血液検査針治療と日々を過ごし、まず祖父の四十九日法要がありました。


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この時、髪短かったんだね。。。
そーいえば、思い切ってきったな。。。。。


そして、10月26日

53歳の誕生日

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後々のお医者さんからの話ではこの誕生日すら迎えることが出来なかったんじゃないか・・・・って。


マクロビオティックの真っ只中だったため、ケーキは母がマクロにのっとった特製ケーキ。
その他の食事もマクロちっくな食事だけど、それだけじゃ参加した親戚がつまらないから各自食べるものも。

過去記事



そして、今日、2009年10月26日55歳の誕生日。
妹・潤子がケーキ買ってきてくれてプチ誕生日会。
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癌宣告されて、2回誕生日を迎えることが出来たけど、1回目の53歳の誕生日はただたただHappyが嬉しかった。
黄疸、肝臓の数値が悪すぎて癌よりも『黄疸』『肝臓』の悪さが心配されていた中、危険な状態を乗り越えて良くなってきてるのが目に見えてわかり、その喜びを分かち合えたような誕生日でした。
それでも、写真を見ると顔色悪いよねぇ。



でも、54歳の誕生日の時よりもパワーがあるような気がするんだ。


それは今だから考えてしまうことなのか・・・・


なんでパパがいないんだろう。


最近よく考えてしまいます。


55歳のパパがいない。


私の中では居る予定だった。
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by wb-style | 2009-10-26 23:35 | 遺すこと

遺すこと4(変化)

かなり時間が経ってしまいました。。。。

環境が変ったのと、父の事を書くのにはかなりの精神的パワーが必要で意外と書く元気がありませんでした。

といっても、たぶん、ココが最初のヤマ場かな。
一番最初のハードル。

癌を発見したことよりも、そこから変化するのが大きい影響を与えてたと思います。
しばらく、離れたかったのかな。。。

それでも、気づけば来月で1年が経ちます。

辛くても

忘れないように・・・・・

*********************************************


8月

癌が発覚して、なす術もなく泣き続けた日々。

毎日泣いて、家の中が今までに無くどんよりした空気。

知らない」ということが、これほどまでに道を閉ざすのかというのが痛いほど分かりました。


癌→肝臓癌→死の図式が頭の中に常にあり、限られた時間は2ヶ月。


早く、なんとかして治療法を見つけなきゃと焦り、その焦りが更に不安に追い込む日々。

それでも父は元気はないが大人しい。

プライドの高い父だけに生きる希望を諦めたのかと思うほど。


毎日、仕事に出て家から離れるのが怖かった。

色んな人に相談した。

そこで一番言われたことが


本人と家族で方向性を決めること


最初は分からなかった。

社会人になってからは、家を空けることもあったり、家族間での本気での会話がなかったから。

それでも、腹を割って、家族が一つになって立ち向かわなきゃいけない。と後になって知ったけども・・・・

私の頭の中には昔、父に言われた言葉が残っていて、父の人間性がわかっているだけに素直になることはないだろう。

母と色んな本を借りてきて、色んな人に話しを聞いて・・・



それでも、中々行動には移せず、そんな歯がゆい日々を過ごしてる中・・・・


妹にこっそり相談して(母は取り乱してばかり&父はプライドが高いがゆえ、知られたくないのかも・・・という考えで)当時、東京にて、弁護士の先生(父の友人)の元で働いていたため、金沢で出来なくても、東京で何かないか・・・・先生に相談して。と、頼みました。


それから数日後、妹から連絡があり・・・・

「先生に相談すると、時間が無いのだからすぐ行動に移さないと!!!!!と」と言ってくださり、父の人間性も理解した上で、隠してても仕方ないから・・・・
と、飛んで来てくれて、


8月23日東京の気功の先生を紹介して頂き、金沢へ来てくださいました。


その時の父の様子は・・・・・

と、いうよりも、病院から余命宣告をされ帰ってきてから一気に見た目も悪くなったようで、腹水と黄疸が激しく出ており、動きもゆったり。


先生が来てくださり、先生に渡された本も安保先生の本。

西洋医学も東洋医学も両方知っておいた方がいいよ。とのことでした。

常に「自分で良いと思ったことをやればいい」と言うことをおっしゃっていました。


元々、父の性格上、気功とか目に見えないモノは信じない人ですが、素直に言うことを聞いて、「良くなるのであればなんでも」と言う言葉を父から聞いたときはビックリしました。

先生からはマッサージの仕方と、日本に数台しかないと言われる温熱治療のひとつ、マイクロ波の器械をお借りして、今後、この治療でいくことになりました。

父の顔色が凄く良くなっているのが目に見えて分かり、先生も気功をしている時に、父の身体の気の通りやすさに感激されてました。


家族の雰囲気も良くなり、これからだね。 過去記事1過去記事2 

と言っていた矢先・・・・




8月25日早朝に電話が。。。。

なんだか、嫌な予感がしました。


祖父(父の実父)が亡くなりました。


過去記事3
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by wb-style | 2009-10-10 23:54 | 遺すこと

遺すこと2 (検査入院~発見)

6月の再検査で入院を宣告されてから・・・


7月



私が生まれてからの記憶で、父が入院したことはなくいつも入院するのは母の方。

なんせ、小学校~中学にかけて2年に1回は入院か手術してたぐらい。

なので我が家では
父=風邪も引かない元気そのもの。母=病弱
なイメージだったので、今回、父が入院するとなってからなんだかソワソワ。



入院を宣告されてから、すぐに入院しなかったのは「病院のベッドに空きがない」から。




その言葉が時間の余裕を作り、心の隙間に「知らないコトの怖さ」が入ってくる。



なんせ、父が入院するコトはまるで未知の世界。
そして、どこまで悪くなってるのだろう…という、見えない憶測。



だけども「よっぽど悪かったら、空きがないとか言ってられなくて、すぐ入院させられるよ」と、いう声も。




7月金沢は旧盆ということで、家柄?もありこの時期は忙しい。
だって、父はエセ坊主(って言っちゃぁ悪いけど。笑)この時期だけお坊さんになってお寺の仕事をお手伝い。

そして、夏の高校野球。




毎年、暑い夏になるんだけど、今年のお盆はどこか不安で曇ったようなお盆・・・

母が神頼みじゃないけど、先祖頼みを兼ねてお墓参り。




お盆が終わり17日、入院することになりました。
ちなみに母も別で人間ドックへ・・・・・・(コレがまた後ほど面白い結果に。。。。。。)




なのに、さっそく19日家に帰ってきてました。笑


さらに、21日22日は週末で帰ってきてました。笑笑


まぁ、お店もあるからだろうけど・・・・
「病院では検査だけだから、することがない。」

というけど、やっぱりどーなのか気になるし・・・・・・


なんせ、入院の詳細が全くわからず、「検査入院」としか聞かされてなく、治療はするのか??どれくらいの期間入院してるのかもわからない。。。

1ヶ月・・・・って話なだけど。。。。






1週間目はほぼ、家に帰ってきて入院生活が終わり、2週間目28日の週末も家に帰ってくる。


だけども、1週間目とは明らかに違っていて、父の表情も明らかに元気がないというかよそよそしい。


かなり悪いかもしれない





「かなり」ってどれくらい!?
やっぱり悪くなってるんだろうけど・・・・
C型肝炎が肝硬変になってるのかなぁ。。。。。。


その時の頭の構図に



C型肝炎 → 肝硬変 → 肝臓癌 → 




という、一般的な考え、知識のみ。
それでも、肝硬変になってたら・・・・・治らないって話だからいずれになってに近づくの・・・・・・???
という不安。





そして、週が空けて一旦病院に戻り、翌日31日(火)



母が呼び出されて一緒に検査結果を聞くことに。





その日、1日はドキドキでした。




仕事から帰ってくると、家の電気一つしか付いてなく泣いてます




明らかにおかしいのは空気で察知しました。

でも、検査結果をちゃんと聞かないと。





「どぉだったの?」





って聞くと




もぉダメだって




が最初の一言。






全く意味がわかりません。






でも、涙だけ勝手に出てきます。



それでも、詳細を聞かないとわけがわからないのでお医者さんの説明を教えてもらうと・・・・





すでに5cm肝臓癌があるそうで。
癌になってるだけでもビックリなのに、5cmってデカイです。

そして、それだけではなく他にも1cm2.5cmのものが数箇所に。


さらにリンパに転移してる可能性もあるけど、これはもうちょっとちゃんと検査しないと・・・・とのこと。







いきなりC型肝炎 → 肝臓癌


途中経過がなく、死を宣告されたようなもの。




実際に「冬までもたないんだって。」と。



いやいや、今生きてる人がなんで冬にはいなくなるの??
なんで冬以降はいなくならなきゃいけなの??








全く理解不能





現代の医療は発達してるって言うでしょ。
なんか方法はないの???





癌が一つじゃなく、小さいのがいくつもあるから癌の切除は無理。
抗がん剤も効かない。
移植も無理。(肝臓の数値が悪すぎるため)



大学病院では決められた治療法しかできないため、今できるのは緩和のみ。




緩和ってなに??
ただ、何もしないで死を指くわえて待つだけでしょ???




ふざけるな









母はただただ悔しくて泣いてるだけ。



私もいきなりのことで放心状態でただ涙が出るだけ。




病院では何もすることがないから、結果がわかってこれ以上用はないので父は退院するそうです。


何もすることないって言っても・・・・冬まで生きられないって人間を追い出すの??
死を宣告しておきながら、病院から出て行くの??



全く理解不能





次の日、退院する父を迎えにいかなければいけなく・・・母は悔しくて病院には行きたくない。と言ってました。
「若菜、行ってきて」って。



8月1日、病院へ父を迎えに。


その日の新聞だったか・・・・




「金沢大学付属病院 、がんの最先端医療技術について・・・・・・・」デカデカと一面に載ってました。




死を宣告した人間に何もできなくて、何が最先端だ!!!!!

と、新聞投げつけました♪
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by wb-style | 2009-03-18 02:50 | 遺すこと

遺すこと1 (序章)

ゆっくりだけど、父に関するコトを残していきたいと思います。



始まりは2007年
前兆は今思えばあったんだろうね。



前々からC型肝炎を持ってるのは知っていた。


ただ、発見したのは2002年。本当は入院が必要と言われたけど、拒否。
薬を飲んでたけど、だんだん飲まなくなる。



やりたい事をとにかくやり通す父で、一度、冗談混じりだろうけどこんな事言われた。


「お前はこの先何十年も生きる。パパは10年か20年だろう。好きにさせろ」


それからC型肝炎と知りつつも数年経ち、2007年。



今までと変わりない日々を送っていて、唯一変ったことは今まで学童野球の監督を務めていたのを辞めたこと。
引退ですね。
コーチ~監督と16年間関わっていたようです。(私が小学校に居た時だから・・・長いハズだわ。笑)

まぁ、それとなく変わりない日々を過ごしていて、2007年、最初に起きた私の中での大きな事件は祖父の危篤(2月)
記事はコチラ


身近な家族の中で始めて「死」を感じて意識した時でした。

物凄く不安と悲しみで悩まされました。



だけども、じーちゃん、しぶとく元気になっていくのよ。笑




そして、じーちゃんの事を心配しつつも4月に父と叔父(父の兄)、従姉妹親子たちがカナダへ旅行!!!!!
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じーちゃんの事を心配しつつ=いつ亡くなるか心配&その前に亡くなってたらカナダに行けなかったかも・・・という心配。笑 寺の人間なのに・・・・不謹慎ですemoticon-0130-devil.gif




まぁ、そんな人たち(父含めて一族)なのでカナダの旅は楽しかったらしく、カナダで弟(Yamato)とも会ってたとか。。。。

だけども、今思えば飛行機とか長時間の移動だったり、時差だったり・・・体辛くなかったのか??
一緒に行った人はその時は一緒に楽しんでいたけど、よく考えればすぐ寝たりしてたかも・・・っと言ってました。それでも、一人長時間スキー滑ってたよ。って・・・笑




何も知らないって良いんだか・・・・・恐ろしいんだか・・・・・笑



知らぬが仏





その仏が崩れるときが・・・・・


カナダから帰ってきてからの事です。


かなり放置していたC型肝炎のこともあるので、自営だったため自ら人間ドックに行かない限り検査する機会はないので周りがずーっと言ってても動かない父だったが、今回は叔父と一緒に人間ドックへ。



案の定、再検査で大学病院へ行ってくださいという、通知。





そして、6月、大学病院へ再検査のため行った結果・・・・・


入院


その時の心情を書いた記事はコチラ


この時は一般的な知識しかなく、C型肝炎を放っておけば、→肝硬変 →肝臓癌という流れだけ。
最初に肝炎が見つかった時に「入院」と言われてるんだから、今回も「入院」と言われて当然とは思ってたけど、どこまで悪くなってるのか全くわからず・・・・


父の生活を見てる限り、病気はそんなに進行してないと思ってた。むしろ、治ってるんじゃない??ってぐらい。
だって、普通に元気なんだもん。



それでも「知らない」ということが大きな不安を抱かせ、これから分かる真実に対して大きなダメージを受けることを・・・・・


後になって知りました。
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by wb-style | 2009-02-03 00:16 | 遺すこと